グルメ情報じゃないけど、東村山市内を歩いていると、「おや?」と思うモノに出くわすことがある。そういうモノもちょっと紹介していきたいなぁと思い、「不思議スポット」というカテゴリーをつくってみた。
実はこの企画、以前もやろうと思ったんだよね。でも1回やって、それっきりになってしまった。
ということで、今回はその以前に書いた
記事を再掲し、今はどうなっているのかを検証してみようと思う。書いたのは11年前の2009年2月19日のことだ。
****************************** 先日のことなんですけど、野火止通りを歩いていたんですよ。八坂駅方面から久米川駅方面に向かってね。

右が一方通行の道路で、左が歩道。割と歩道の幅が広いから、歩くと気持ちいい。この歩道の下に野火止用水が流れている。
で、歩いていると、妙なモノを見つけたんですよ。

見事に映り込んでしまった私の影ではなく、その影の頭の左上にある石柱が問題の物体。よく見ると、道路の反対側にも、もう1つ石柱が立っている。
場所は
「あら井鮨」を通り越して、久米川駅方面に進み、2つ目の路地の入り口だ。この路地に入ると、魚屋の
「魚秀」やパン屋の
「グレイン」がある。
「何だろう?」と思った私は、ちょっと回り込んで、自分の影の先にある石柱を見てみた。すると……。
エエッ! 「富士見橋」? 橋って何のこと? そんなモノないんだけど。道路を挟んで反対側の石柱の方も見てみると……。

同じだ。うーん、どういうことなんだろう?
考えられるのは、かなり以前になると思うけど、野火止用水が現在のように塞がれて歩道になる前は、ここに橋がかかっていたのだはないだろうか? その名残がこうやって石柱として残っている……。
ただ、この考えには1つ問題がある。野火止用水そのものは、そんなに幅のある流れじゃないから、橋とはいえ、わざわざこんな石柱を立てる必要はないと思うんだよね。
それからもう1つ疑問がある。それは「富士見橋」という名称だ。「富士見」というからには、この場所から富士山が見えたということだと思うのだが、それっていつ頃の話なんだろう? 今は目の前に都営住宅があって全く見えない状態だ。
読者の皆さんの中で、「富士見橋」のことをご存知であれば、在住歴の浅い私のためにレクチャーしていただけないでしょうか?
よろしくお願いします。
****************************** この掲載後、コメントがいくつか寄せられ、「東村山の地名とそのいわれ」という東村山郷土研究会が発行した本の87ページに野火止用水に架かる橋として、「富士見橋(栄町2丁目41番地・萩山町3丁目18番地)この橋から富士山が良く見えたのでつけられたという。現在は暗渠になって、橋の面影はなく、『富士見橋』と書かれた親柱だけ残っている」という記述があることを教えていただいた。
やはり野火止用水に架かっていた橋なんだね。だけど、野火止用水にはこれ以外にもいつくつも橋が架かっていたと思うんだけど、どうして「富士見橋」だけ名称が書かれた親柱が残っているのだろうか?
そんなことを思いつつ、今現在はどうなっているのか、確かめに行ってみた。

確かこの路地だったよなぁ……おっ、まだ残ってるよ。反対側に回ってみると……。

ちゃんと「富士見橋」と書いてある。
以前の記事には、路地の先に「魚屋の
「魚秀」やパン屋の
「グレイン」がある」と書いてあったけど、
「魚秀」はもうなくなっちゃったんだよなぁ。あんな路地裏に魚屋さんがあったことを覚えている人、今はもうあんまりいないだろうなぁ。
改めて親柱を見ると……。


名称板の汚れ具合も傾き加減も11年前とほぼ同じだ。撤去されることもなく、ひっそりと残っている。それにしても、野火止用水が暗渠となる前は、いくつも橋が架かっていたハズなのに、どうして「富士見橋」だけ親柱が残っているのだろうか? それとも探せば、まだ残っている親柱があるのだろうか?
もしご存知の人がいましたら、ぜひ教えてください。
【不思議スポットDATA】住所:東村山市栄町2-26-5と東村山市栄町2-41-7の間
★お店や料理に関する記述は、訪問時における管理人・マサ本人の主観によるものであり、誰が行っても同じ印象を抱くとは限りません。またお店のDATAは取材当時のモノであり、変わっている可能性があります。
ブリヂストン南に「鎌倉街道」が南北に走っていて、その延長線を北に延ばすと富士見橋あたりにぶち当たります。
都営住宅は鎌倉街道の上に立っている可能性もあります。
もっと遡れば、「旧東山道」が同じ経路にあった可能性もありそうです。
あくまでも仮説ですが・・・・